映画『君の名は。』 感想
ついにこの時が来てしまいました。
『君の名は。』の感想を書く時が、、、
ご存知の通り、新海誠監督が作ったアニメ映画です。
台湾とか香港でも人気らしいですね。
私の周りにはかつてから新海誠作品を見てきた人が多くて、彼らはみんな「この作品で一気に変わってしまった…」と嘆いていたので、どんなものかと見てきました。
「見たら負け」「見たら負けちゃう」って思ってずっと敬遠していたんです。よくありますよね、こういうの。
マツコデラックスが「ペットを飼ったら負け」って言ってるのと同じやつです。
何かに負ける気がしたのですが、もう敗北を悟って、でも少しの抵抗でレイトショー1300円で見てきました。
泣ける泣けるとうるさく言われていたので、渋谷でもらったポケットティッシュ2つを膝の上に置いて見ました。
でもまぁ、ここまでの文章でお察しの通り、泣かなかったです。
(…感動できなかった……)
その感動しなかった理由、面白くなかった理由を1週間くらいかけて消化したので、今から考察を書こうと思います。
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まず「学生時代にモテなかった男がつくった、理想の女の子と恋愛物語」感がいきすぎてたこと。
ファンタジーもファンタジーすぎて描写が足りなかったんですよ、この汚れた心を持つ私としては。
三葉ちゃんかわいい、間違いなくかわいい。
瀧くんはちょっと監督自身の投影が入ってるのか、ちょっとオタクっぽかったですね。
で、入れ替わってるうちにいつの間にか、本当にいつの間にかお互い惹かれあってますよね。
いや、いつだよ!突然すぎてびっくりだよ!
あのsexyな先輩とデートしようと2人で頑張ってたじゃんか!
セリフかなんかで「理由もなく気がついたら惹かれることがある。それは夢で〜〜」みたいな説明があったきがしますが、ちょっとそれだけじゃ足りないっす。
それに対して何も思うことなくピュアに受け入れられるような白い心を持った大人になる予定だったんですが、どこで間違えたんだろう。
映画を見ながら、「ああ、この感じわかるなぁ」ってのが徹底的になかった。
そんな感じ。
というか根本的に、2時間で無理やりおさめたから色々ひろげっぱなしで解決しないまま終わっちゃったのかもしれないですね。
というフォローは置いておいても、色々スルーされすぎてて、見終わった後、「で、あれはどうして?え?」って戸惑いが残りました。
例えば、瀧くんって父子家庭ですよね。
なのに父子家庭でなければならない理由がわからなかったんですよ。
都会的な生活っていうのを表したかったのかなぁ。
父子家庭であんなにたくさんアルバイトをして、お父さんの苦労もわかってるしっかりもののたきくんが友達と1600円もするパンケーキを食べにいくなんて、、
「家事もこなす瀧くん」、という描写もなかったしだったら別に父子家庭でなくてもよかったんじゃないって気がします。
本気で見てたんですけど、だんだんコメディちっくの映画にしか思えなくなっちゃって。
満員電車から降りるときに紐を中にいる人に投げて、その人が受け取れるってどんな空気抵抗と重量してるんだろう、とか
どうして誰からもらったかもわからない得体のしれない紐をそのまま「得体のしれないもの」として解決せずに3年も身につけていられるんだろう(もちろん夢の影響で理由なく惹かれるというのは分かるけど)、とか
最後、時空が歪んで絡まって(紐のようにね!)出会ったときに瀧くんが三葉ちゃんの手にマッキーで書くじゃないですか。
ふっと姿が消えてしまった後、三葉ちゃんは「瀧くん瀧くん、彼の名前は瀧くん」と名前を唱えて(ここの三葉ちゃんちょうかわいい)、まだ覚えているから手にかかれたものを確認しないの?
まじで?
まじで?
ゴロゴロころんじゃったときに、たまたま手のひらを見るっていう奇跡がおきて確認するわけですけど、まぁそこには「好きだ」って書いてあるんですよね。
いやだからちょっと待ってくれよ〜
うそだろ瀧くん。。
もうその茶番やめておくれよ、私は疲れたよって思ったらもう駄目でした。
三葉のお父さんが政治家になった理由もまぁ察せられるけど描写はほぼないわけだし、最後三葉がお父さんに直談判しに決死の覚悟で町長室に行ったら妹がすでにのほほんといて、姉妹と父の関係性もよく分からなくなっちゃって物語については諦めました。
この映画って音楽が印象的で、力入れてる部分だと思います。
でもちょっと押し付けがましか…った……
「ここでドキドキして!」「ここでハラハラして!」っていうジェットコースター感を演出するのに大きな役目を買っているけれど、物語が面白くて緻密に練られているものだったら無音でもハラハラドキドキできるものだし、私今ごまかされてる!ってあるとき我にかえっちゃいました。
小説にしても絵画にしても、感動する場面はひとそれぞれでいいはずなのに無理やり一つに決められてしまった感じで圧迫感を感じてしまいました。
この映画を絶賛している人は大抵このジェットコースター感が楽しかったみたいですね。
確かにジェットコースター感でいえばピカイチの映画だと思います。
もう1度見たら印象が変わるのかもしれませんね。
国立新美術館『ダリ展』 感想
遅ればせながらダリ展に行ってきました。
ダリ展|企画展|展示会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
ダリといえばシュルレアリスムですね。
結構前に『マグリット展』に行ってその時にシュルレアリスムに若干はまってたので、ウキウキしながら行きました。
学校終わって閉館1時間前にギリギリで飛び込んだのですが、人が少なくて意外とよかったです。
会場入ってすぐはダリの模索が見られる絵画が展示してありました。
ダリと言われれるとあの変なヒゲを生やした変人というイメージで、天才肌なのかと思っていたのですが、実は生真面目で勤勉に絵画を勉強しんだなぁと、とその痕跡が見られてニヤニヤしちゃいました。
モネなどの印象派、ピカソなどのキュビスム的な絵がありました。
うーん悪くない。
美術館の展示様式として「ホワイトキューブ」というのがあって、芸術作品を掛ける壁の色を白にすることによって中立性を保つ、というのか、全てを包括できる、というのか、、
とりあえずそういうのがあるんだけど、このダリ展はダリの画風の変化によって壁の色を変えていたのが素晴らしかった。
ダリのシュルレアリスム初期期は濃い朱色、アメリカに渡った時はクリーム色、映画の部屋は紺色、日本の原爆に影響を受けて科学に興味を持った原子力時代は青、などと、それぞれがそれぞれの絵画とぴったりですごくすごく良かった。
シュルレアリスムの濃い朱色は「そうくるかぁ」と感動に胸を打たれた。
あの絵画たちにあの色は最高だった〜〜〜〜
私は彼のシュルレアリスムの赤い部屋の作品と、原子力時代の作品が好きでした。
この展示でよく考えられてるなぁと思ったのが、だんだんキッチュになっていくダリの変遷を見られること。
どんなに絵に興味のない人でも、きっとダリっていう名前は聞いたことあるだろうし、あの特徴的なヒゲを生やした顔を知っていると思う。
ダリは「ダリ」というブランドを作り上げていって、つまりは商業に魂を売った、大衆受けするものに寄っていったというのがこの知名度の高さにつながっています。
舞台の衣装を作ってみたり、帽子を作ってみたり、映画を作ってみたり、アクセサリーを作ってみたり、chanelとかDiorみたいな感じで「Dali」なんですよねぇ。
当然そのようなあり方は批判されたりもするんですが、俗に染まりきった絵も私は嫌いじゃないです。
この俗に突き抜けていく感じは、岡本太郎に通ずるものがあるらしいですが、岡本太郎が世間に衝撃を与えていた時代に生きていないのでよく分かりません…
とりあえず彼は「創造」という才能に溢れすぎて俗にまで達してしまった愛すべき人のような気がします。
ガラのようなfemme fataleに出会ってしまったのも、また彼の魅力を増しているよなぁと思いますね。
映画『この世界の片隅に』 感想
片渕須直監督の『この世界の片隅に』を見たので感想を書きます。
他の映画を見たときにcloud fundingで資金を集めて制作した映画、という予告が流れて興味を持った映画でした。
何かと話題の能年玲奈ちゃん(私は彼女、すごく好きです)が主人公の声をやっているということで、すかさず見に行ってきました。
ちょうかんどうしました。(ボキャ貧)
以下、公式サイトからの引用
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。
夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。
というあらすじです。
以下、感想です。
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戦争をテーマにした映画は枚挙にいとまがないけれど、一番近い映画はジブリの『火垂るの墓』が思い浮かびました。
でもやっぱり戦争映画となると非日常感が出てしまって、どこか遠い世界の話のようにしか思えないんですよね。
『火垂るの墓』もすごく悲しい話で心を打たれるんだけど、まず映画という枠、そして時代という枠、でさらに戦争という枠があって、今私たちが生きているこの毎日から遠いものになってしまってる感は否めない。
そこの距離感のなさがこの映画が絶賛されている要因の1つじゃないかなぁと思っています。
昭和1桁に生まれた主人公すずさんと、平成に生まれた私がいとも容易くリンクしてしまう。
のびやかに、毎日目の前のこと一つ一つに喜んだり戸惑ったりしていて、私と変わらない人がそこに「いる」んです。
すずさんはのんびりやさんでどじっこで、すごくチャーミングな人柄で、戦争が始まる前にあるような描写のハラハラ感も全くなく、「これはコメディか」と思ってしまうような、映画館の中に笑い声がこだまする映像が続きます。
これまでの戦争映画って明るい日常は冒頭にちょろっとあるだけで、すぐに戦争という非日常感が漂ってきてきて町が火の海になったり、ちょっと突然過ぎませんか。
登場人物たちも「いよいよ戦争だ」「これからどうなるんだろう」といった様々な困惑の姿を私たちに、映画的に誇張された形で提示してくるものが多い。
そのはっきりした覚悟を私たちも感じて、身構えてから戦争が起こるので、戦争の衝撃に強くなってしまっていたりします。
非日常感が増して、見ている観客はちょっと他人事になってしまう。
でも『この世界の片隅に』という映画は、日常がベースでした。
すずさんたちも、私たちも、大した覚悟もないまま、突然戦争が牙をむいてくる。
それが辛くて辛くて辛くて、、、
ほんとういいえいがです。(ボキャ貧)
やがて彼女は突然結婚話が飛び込んで結婚するんですよね。
で、やっぱり夫の家に入るわけですからまぁ大変なことが多いこと多いこと。
絶対私にはできないなぁ…
家族の誰よりも先に起きて井戸から水を汲んで朝ご飯を作ることから始まり、ご近所付き合い、義理の姉からのいじわる、友達もいない孤独な環境、それらを「当たり前」として乗り越えてこなしていくすずさんの姿に、私もいちいち屁理屈をこねくり回して面倒なことから目を背けてちゃダメだなとちょっと反省しました。
すずさんの頭にハゲができちゃうエピソードは大好きです。
印象的なセリフで「戦争がまだ大事だったころが懐かしい」というのがあります。
いつのまにか戦争が日常になってしまうんです。空襲警報に飽き飽きしてしまうんです。
配給の生活も当たり前になるし、野草を食べることも楽しめるくらい日常になるんです。
21世紀、2016年、終戦から71年たった劇場の椅子に座っている私の日常とリンクしていたすずさんの毎日に、過酷なものがやってきました。
しかも「ここで感動してほしい」「ここで衝撃を受けてほしい」というような押し付けがましい描写が一切なく、淡々と物語が進んでいってしまいました。
ある意味では残酷です。
その衝撃を消化する前に次の衝撃が来てしまうから。
どんどん衝撃に慣れきっていって、とてつもなく大きな衝撃も立ち止まらずに対処できてしまう。
私たちも何かに慣れきって、大切なものを見逃しているのかもしれない、すでに見逃してしまったのかもしれない、と頭をよぎったら途端にこわくなりました。
他にも慣れきって意味を考え直さなければならないことが、私たちにはたくさんあるはずだとハッとさせられました。
ある映画がほんとうに良い作品かどうかは、その作品を見終わった後、自分の日常に戻った時にその現実を捉えるメガネが変わるかどうかだと思っています。
きっとこの映画を見た人たちはそれぞれがそれぞれに考えることがあっただろうなぁ。
戦争は本当になくなってほしい。
戦争はビジネス、戦争は自国への反感感情の吐け口となり統制が楽、などとかつては理性的に戦争をする理由、すべきでない理由を分析していたこともありましたが、この映画を見ると理性なんてものではなく本能的に戦争の業の深さがしみてきます。
某星条旗の国の大統領となる人が日本にまさかの核保有を求める主張していましたが、この映画に感動することができている日本人はあの国には屈すはずがないと確信を新たにしました。
はーーーどうなるんでしょうね。
だんだん世界が閉鎖的になっていってて、ちょうど今転換期なんだなぁと色々考えなければいけないなぁと思いつつ、怠惰で見ないふりしてきた部分もあって自分にも落ち込んだりしました。
天皇陛下の終戦スピーチも、確か天皇は日本国民を守るために自分の命を捨てようとしたんだったっけ、とエピソードを思い出したらまた泣けてきて、戦争は例外なく全ての人を不幸にする絶滅すべきものだとずっと胸の中で渦巻いていました。
そして、たった一人で広島市から呉市にやってきたすずさんを大きな愛で終始包んでくれていた周作さんとの関係も感動的。
家事をする、という誰にでもできるような役目以外に、すずさんに生きていくかけがえのない理由を(結果的に? / 意図していないとしても)与えて支えていた周作さんがいたからこそすずさんは前向きに生きてこられたのだと感じて、また涙が止まらなかったです。
あともう1回くらい見ようと思います。
エロ本規制について思うこと
2020年の東京オリンピックに向けて色々、本当にいーろいろ日本は整備していってますね。
一番ありえないなーって思ったのが、コンビニに置いてある18禁の雑誌規制ですね。
行政による文化の粛清は今まで数々起きてきたと思いますが、なんかおかしいと思うのは私だけでしょうか。
そもそもの話をします。
文化は上品と下品があって、どちらもそれ自体としては同列なものです。
文化が豊かになればなるほど、その上品と下品の幅が大きくなっていきます。
で、これを踏まえた上で、、
行政が排除してきたものはその「下品」な文化。
しかもそれは「欧米から見て」下品だと見えてしまう文化、欧米にはない文化であることが多い印象です。
欧米コンプレックスがひどすぎませんか。気のせいですか。私はまだ反抗期なのでしょうか…
デベロッパーが街を次々にぶっこわして、シンガポールみたいな高層ビルを次々建築して、日本は何を目指そうとしているのか正直分かりません。
一方で海外から絶賛されたものについてはあのクソださい「クールジャパン」とか名前を付けて、まるで国民の愛国心を煽るかのように国内で自画自賛してごり押ししてます。
下品な文化を排除するのはとっても簡単です。楽な道です。
でもこんな安易に取るべきではない道です。
きっと最後に残るのは欧米から見ても下品にはならない文化で、そんな表面だけ金色のメッキでテカテカしてるはりぼての国なんて気持ち悪いです。
今でさえも過剰な清潔信仰進行、生々しいものの忌避、自信のなさからどうしても逃げる責任転嫁の姿勢などは、私たち日本人の豊かな人間らしさ(怠惰であったり、迷惑を掛け合ったり、許しあったり)を失わせていると感じています。
きっとオリンピックに他国によい風に見られるために必死なんでしょう。頑張って勝ち取ったこのチャンスをものにしたい気持ちは痛いほど分かりますが、何か大切なものを失ってしまいそうで、私は泣きそうです。。
映画『太陽』 感想
入江悠監督が神木隆之介と門脇麦を主演に映画化した映画『怒り』について色々書こうと思います。
2016年の夏には渡辺謙、森山未來などが出演した『怒り』という映画が東宝から配給され、理不尽に対する怒りやどうしようもない悲しみなどを目の前に、呆然と途方にくれてしまうようなそのストーリーに衝撃を受けた、と話題になってましたが、
ぶっちゃけこの『太陽』のほうがずっとずっと衝撃的で後に引きますね。
元は舞台で、過去には蜷川幸雄も演出したらしいと耳にして見に行きました。
とりあえずこの映画のあらすじを公式サイトから
物語の舞台は 21世紀初頭。バイオテロによって世界にはウイルスが蔓延。太陽の下では生きられないが、若く健康な肉体と高い知能を有する進化した新人類【ノクス(夜に生きる存在)】。太陽の下で自由を謳歌しつつも、暮らしは貧しいままの旧人類【キュリオ(骨董的存在)】。2つの世界で対立しながら生きる2つの人間がどうやって融和していくのか─生きることはどういうことなのかを問いかけていく。
超絶簡単にまとめると
世界はウイルスのせいで2種類の人種がいる
・ノクス(若く健康な体と高い知能を持ち、高層ビル、食べ物、光が溢れている町に暮らし、知的な産業に従事する進化したとされている人種)
・キュリオ(年相応に老化し、農業や畜産などの肉体労働によって生計を立て、貧しい暮らしをする進化していないとされている人種)
ノクスは太陽を浴びられず、キュリオは太陽のもとでも伸び伸びと生活ができるという設定。
キュリオはノクスに羨望の眼差しを向けており、あのような豊かな生活を送りたいと望む。そのためにはキュリオの慈善事業に応募して合格し、手術を受けることが必要。
鉄彦(神木隆之介)と結(門脇麦)はノクスであり、鉄彦はキュリオになりたいと幼い頃から望んでいたが、色々あってキュリオになったのは結。
かなり雑ですが、伝わりますかね?
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見ているときに何回泣いたか分からないです。
辛い、辛すぎる。かなりのディストピアですが、この豊かな日本、そして高等教育を受けている人として見るべきだと思います。
豊かとは何か、愛とはなにか、人間らしいとはなにか、など強制的に考えさせられて、SFであるはずなのに残酷なまでに見ている観客1人1人を他人事にさせてくれない物語でした。
このストーリーが持つ普遍性はまさに蜷川幸雄が好きそうだなぁと思った記憶があります。
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以下、私の感想。(基本的にネタバレ)
まず底知れぬ恐ろしさを感じたのは、ノクスのその善良さ。
なぜ自分たちの仲間を大量に殺したキュリオを助けたいとそんなに強く思えるのかの答えが頭をよぎった途端、ノクスが怖くてたまらなくなった。
ノクスは、キュリオのことを本当に自分たちと同等とみなし、差別なんて考えはないのだと思う。
人間には昔から身分の差がある。貧しいほうが下に見られ、豊かなほうが大きな力を持ち、上に立つ。
ライオンが君臨し、彼らはシマウマを格下にみなすことはどうしようもない自然の摂理だ。
なのにノクスはそのような思想が1mmも見えない。
きっとそれは彼らの学んだ教育、教科書には「差別はしてはいけない」「人類皆平等」と書いてあったから。
それを自分で咀嚼して考えることなく、心のなかにそのまま据えることができてしまう人種なのだ。
もはやこれは素直さという一言で片付けてはいけない。
恐ろしいまでに無機質で、とても機械的だ。全てを何の疑いもなく受け入れている。
人間は感情を持ち日々悩みが尽きずに蛇行するからこそ人間なのに、いったいこのノクスはどうしたのか。
いつも「絶対的な答え」を知っていて、悩みや愛は効率的ではないと切り捨てている。
そしてそのノクスの恐ろしさに、鉄彦はなぜ気がつかないのか。
私もきっと気がつくべきことに気がつけていない、と恐怖に落とされた。
そして結の父は娘の「豊かな」生活を願って勝手にノクスへの転換を申請する。
彼はキュリオの人間らしい「豊かな」心(怠けたり、間違いを犯したり、けんかをしたり、うつつをぬかしたり、、)の大切さを知りながらも、娘には幸せ(物理的な)になってほしいと結を送り出す。
きっともう親孝行の精神にあふれた優しい結には二度と会えることはないと分かっていながらも送り出す、そのとてつもなく大きな愛、無条件な愛にやられてしまった。
ノクスになった結は案の定、あんなにも思い入れのあったマフラーをあっさり捨ててしまう。そんな結の姿を見てもなお、結の父は悲しみを抑えて笑顔で送り出そうとする。
そして結は最後に「あんな下らないことで悩んでたことが馬鹿らしい」と発言する。
まさにディストピア。どうすればいいのだ。
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とにかく見てほしい映画です。
(あのクソ映画)『君の名は。』を2回も見るんだったら、この映画にその2時間をください。
門脇麦ちゃんのノクスになると一気に機械的な声になり、棒読みで一本調子、抑揚なんてくそくらえ、といった演技が最高です。
自己紹介
とりあえず自己紹介します。
地方から上京してきた、慶應義塾大学SFC生です。
僻地に通ってます。豚の糞のにおいがするのは本当です。本当と書いてマジと読む。
就活が終わって毎日暇でゴロゴロしてたら信じられないくらい人と話す機会が減ったので
自分のなかで生まれた思いをこれ以上溜めておいたら死んじゃうと思って始めてみました。
続くかは分からないです。継続とか努力とかいうものと全然仲良くなれてない22年間だし。
努力努力再努力を自分に課せる性格だったら、もっと人生まともだったんじゃないのってよく思いますねー。
とりあえず、ブログに登録するっていう行動にうつした自分を褒めたいです。
バイトから帰って来て思い立って最初の記事を書いてみたけど、明日2限から学校なのでとりあえず寝ます。
深夜3時ですよ、もう。人によっては早朝ですよね?1日って短い。
でも夜ふかしってやめられない。背徳感と優越感と、、、
次の日後悔するって分かっていても怠惰に過ごしてしまうような、その人間の性はそんなに嫌いじゃないです。
……だから卒業がやばいのか。